続いて、皆さんご存じと思う、キリシタン大名高山右近と金沢の関係について述べます。なぜ、高山右近と金沢が関係あるのと疑問に思った方は多いと思います。
私も金沢に単身赴任する前は同じでした。しかし、高山右近の63歳の生涯のうち、実に晩年の26年間もの期間金沢に住んでいたのです。
高山右近と言えば大河ドラマの登場人物の常連で、キリスト教の熱心な信者、関西あたりの大名で、キリスト教を領民に熱心に布教し、善政を行い、領民にもすごく慕われた位の認識しかないと思います。
大河ドラマではこの辺でストーリーからフェードアウトしていき、その後の高山右近を知る人は少ないと思います。
しかし、後日譚があったのです。このことを、地元新聞紙が取り上げているのを読み、興味をもって調べだしたのが始まりです。
高山右近の生涯については、加賀乙彦先生の高山右近(講談社文庫)が詳しいです。私も金沢市の図書館で借りて読みました。
では、高山右近の生涯について、金沢時代にフォーカスを当てながら見ていきたいと思います。
戦国時代の1552年頃、摂津(高槻市あたり)に生まれ、10歳でキリスト教の洗礼を受けています。その後、高槻城主となり織田信長、豊臣秀吉と仕えました。
しかし、豊臣秀吉の時代バテレン追放令1587年施行により、信仰を守ることを引き換えに領地と財産すべてを捨てる事を選び、世間を驚かせました。
その後、1588年、36歳の頃、前田利家を頼り金沢に赴き、1万5千石の扶ちを受けて客将、重臣の一人として暮らしました。
金沢城築城の際は、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役立ったといわれています。
また、キリスト教を介してポルトガル語を理解できたようで、ヨーロッパの築城技術についても知識をもっていたという説もあります。
この時代、キリスト教に改宗したキリシタン大名の大きな目的の一つは、火縄銃の火薬の入手を外国よりしやすくするためともいわれています。
キリシタンになることによりポルトガル人と親しくなり、火薬の融通をつけてもらいやすい傾向があった様です。その後、日本でもその製造方法が開発されると、仏教へ帰依する大名も多くいたとの事です。
そして、江戸時代に入り1614年に徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、加賀を退去し、マニラにわたりました。
言葉にすると簡単ですが、その道中は困難を極め、その様子については前述の加賀先生の小説に詳しく記されています。
また、マニラ到着後はスペインの総督に大歓迎を受けています。しかし、老齢のためすぐに病を得て、マニラ到着よりわずか40日後に息を引き取っています。
病気の原因はマラリアとの説が有力です。マニラには高山右近の銅像が現在立っています。また、日本の鎖国下において、その人生がオペラ、ウコンドノとして欧州で上演され、欧州で一番知られた日本人であった様です。
そして、没後400年を経て、カトリック教会、ローマ教皇庁により福者に認められています。
金沢時代にも熱心に布教活動に勤しんだ様で、金沢城の近くに教会を立てて、多くの信者を集めていたようです。
その後、キリシタン国外追放令の後、高山右近が去った後は、その弟が加賀藩領地に残り信者のフォローを行ったようです。
すなわち、加賀藩に働きかけ、キリスト教を仏教の一宗派として位置づけ、能登半島の七尾市あたりの寺として、信仰を継続し江戸時代を乗り切った様です。
現在でも隠れキリシタン寺として七尾市に継承されています。キリスト教を仏教の一宗派とする発想は超ウルトラ級の発想です。
それでも、日本で一番のキリスト教シンパの高山右近が4半世紀にわたり活動していた加賀藩領内で、多くの信者がいたことが知られておりますが、島原の乱の様な数万規模の弾圧による死者も、混乱もなく、信者を守っりきったのは特質すべき事と思います。また、その子孫の方は現在でも能登半島に現存されておられ、その系譜をたどる事ができます。
どうでしょうか、高山右近、自分の地位や名誉、財産をなげうっても、キリスト教による信仰を守り切ったその信念、行動力、胆力、知れば知るほど感動します。
また、暴力に訴えることなく、平和的に物事を解決していこうとする一貫した姿勢も感じられます。また、大河ドラマからは知りえない、波乱万丈の人生、調べれば、調べるほど、感銘を受けます。
今年の大河ドラマは、麒麟が来たで、今まで悪役であった、明智光秀が主人公となって話題を呼んでいます。いつか、戦国武将で大河ドラマ常連ですが、生涯を知られていない、高山右近を主人公とし、その激動の生涯をぜひ大河ドラマにして描いて頂きたいと願っております。
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