江戸時代の参勤交代

歴史をくだり現代に近い日本における大規模な単身赴任としては江戸時代の参勤交代が上げられます。

現在の 東京大学 本郷キャンパスは、私の赴任している金沢市に居城があった加賀百万石 前田藩の藩邸後地となります。全国的には知られていませんが、あの有名な東京大学の赤門は元前田藩の江戸屋敷正門である事は地元金沢ではあまりにも有名な事実です。

東大 赤門

その様な縁もあり、東京大学総合研究博物館 大江戸単身赴任事情 長谷川 孝徳氏著を以下に抜粋します。

現在では一人任地に赴くサラリーマンに対して、企業は各種手当を出している。交通機関も単身赴任者を対象とした割引運賃を設けている。実はこうした処置を加賀藩でも行っていた。

国元を離れて江戸詰を命じられた藩士に対して、扶持方という手当を出していたのである。

知行高(本棒)に応じて人馬の数を定め、その数に対して一人一日米一升、馬を伴うクラスの者には、さらに馬一頭につき一日大豆三升を、それぞれ江戸の相場で銀に換算して支給していた。

他藩の場合、一日一人分米五合が多かったようであるから、加賀藩は百万石の台所を誇るだけに、比較的裕福な待遇だったといえる。

ところで、江戸詰を申し渡された藩士は、今なら海外へ転勤を命じられたようなものである。現在の海外は近いけれど、当時は江戸まで約二週間かかった。

とんでもなく遠い地に感じたことであろう。藩主は、病気や国元で大火が発生したなど特別な事情がない限り、だいたい一年を江戸で、一年を国元で過ごした。

また、藩主夫人や子供たちも江戸で生活をしていた。当然、家臣も江戸へ交代で勤めることになっていたのである。加賀藩では江戸家老をはじめ、ほとんどの藩士は金沢からの単身赴任組で現地採用はごく少数なのであった。

江戸に赴任していた藩士の人数は、時代によってかなりの変動があった。「江戸屋敷在住書」や「詰人高調書」など、残されている記録類を手がかりに推定すると、藩主にお目見えできる平士以上が約一〇〇~二〇〇人、与力・歩が約一三〇~二五〇人、足軽・小者が約二〇〇〇人、これに陪臣が約五〇〇~八〇〇人であった。

これらが国元から江戸へ単身赴任していたのである。さらに江戸定府の家臣と奥向などの女中を合わせると、江戸屋敷全体で多い時には三〇〇〇~四〇〇〇人の規模になったと思われる。

もちろん、藩主が江戸在府中と帰国中では詰人が約半数になるなど、人数にかなりの違いがあった。

さて、国元を離れて江戸へ赴任する期間はどのくらいだったのか。貞享四(一六八七)年二月に一年交代と定められ、長らく一年勤務の状態が続いた。

しかし、費用がかかるとの理由から、安永九(一七八〇)年二月には二年半勤務となった。また、同月には参勤交代の道中行列の装備も簡易化された。

ところが、早くも翌年の天明元年七月には一年半勤務に短縮したのである。質素倹約を推進したため、長期勤務だと江戸詰の藩士の生活が苦しくなるからというのがその理由であった。

一年半の勤務とは、春に藩主の供として江戸へ行った藩士は翌年の秋に帰国し、秋に江戸へ行った藩士は一年半後の春に藩主の供として帰国するシステムであった。

ただし、常に藩主の側にいる近習方のような役職は一年勤務であったと記載されている。

現代に近い江戸時代約300年間においても加賀藩(現在の石川県・富山県)だけで約3,000人が単身赴任していたことが史実としてあります。この事からも日本人は歴史的に見て古来より単身赴任を受け入れてきた国民と考えられます。

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