義父か先週、93歳で永眠しました。私の感じ、思い、考えた事をここに記しておきたいと思います。義父は1か月ほど前、誤嚥性肺炎をおこし、死にかけましたが、抗生剤の点滴で一時回復しました。しかし、ほぼ寝たきりの状態となり、点滴だけが水分の補給ルートとなりました。その点滴も腕の血管がボロボロになり、点滴できない状態となりました。また、本人も点滴を嫌がり、針を抜いてしまうので、医師と相談し、点滴もやめて、尊厳死を待つことにしました。本人もいたずらに、これ以上生きる事を以前より拒否していましたので、妥当な判断だったと思います。
しかし、その飲まず、食わずの状況で、1週間以上生きながらえました。はたで看病していた妻の話では、その間、苦しそうで、看病していてもつらかったとの事でした。尊厳死と簡単に言うけれど、点滴を止める事により、義父を死に近づけているのは事実で、しかし、ここでいたずらに点滴しても苦しみを引き延ばすだけとも考えられ、そのはざまで私自身の心も大きく揺れ動きました。本音は早く義父に楽になってもらいたい、死を待ち望んでいる気持ちがあったのも事実で、それも割り切れない感情でした。尊厳死はそんな単純で、簡単なものではないと、つくづく痛感しました。
最後の方は、近くのお寺さんに手を合わせ、仏さまにお迎えに来てくださるようお願いする日々でした。人ではどうしようもない事は、仏さまにおすがりするしかないと思ったからです。また、義父が亡くなった後、どこに向かえばよいのか迷っているのではないかと考え、先に亡くなった義母にお迎えに来ていただくように祈る事を思い付き、仏さまにそのことを念じた次の朝に旅立っていかれました。偶然かもしれませんが、先に亡くなった身内の方にお迎えに来て頂くという考え方は、とても心すくわれる思いがしました。
義父は3年程前に義母に先立たれ、すでにその頃は認知症が進んでいて、義母が亡くなった事もすぐに忘れてしまうような状況でした。ひとり暮らしは到底無理で、近くのサービス付き高齢者住宅に入居頂き、妻が週1回洗濯、掃除等身の周りの世話をし、後は施設の方にケアをお任せし大変お世話になりました。日本の介護保険の偉大さを痛感した3年間でした。義父の最後も施設の方に大変お世話になり、施設で娘2人に看取られながら、静かに息を引き取りました。施設の方、そして訪問介護の看護師さん、お医者様には心より感謝しています。本当にありがとうございました。義父の葬儀にも、この関係者の方が多く参列頂きました。
義父の最後をみて、私もたとえ認知が入り、90歳になっても施設に入り、家族に必要以上の負担をかけることなく、天寿を全うするイメージができました。その意味において義父の最後は、私の最後の在り方のモデルケースになったと思います。自分も義父の様な最後を遂げれればと思います。葬儀には義父の兄弟親戚が会し、故人をしのんで話をされていましたが、私の知らない話がほとんどでした。義父の偉大な面を改めて認識しました。認知症になってからの老人のイメージが多い義父の、私の記憶ですが、生涯を通してみると、いろんな功績を親兄弟、親戚に残して行かれたと、認識を新たにしました。
最後は火葬された義父の骨を骨壺に収め、現在は我が家の仏壇の横に安置されています。9月中にお墓に納骨の予定です。人間の一生とは何かを考えました。せんじ詰めれば、最後は骨となり土にかえるだけなのです。私も還暦を過ぎて、そう遠くない将来に訪れる死を考えました。人間のゴールは結局、皆、死である以上、その過程がすべてだとと思います。私の好きな言葉に、人生は旅路こそがすべて、という言葉がありますが、まさにその通りであることを痛感しました。これからの残された人生、人生の旅路を大切に生きていきたいと思います。
下記は義父か飲まず食わずで1週間、尊厳死を待っている時に、GPTにした質問です。参考にしてください。
93歳の義理の父親が、最後の時を迎えようしています。しかし、1週間位がたち、なかなか亡くなりません。穏やかに送ろうとする気持ちと、早くいってほしいとの気持ちがせめぎあい、とてもストレスを感じます。どう考えればよいのでしょうか教えてください。
ChatGPT:
率直なお気持ちをお話しいただき、ありがとうございます。その葛藤はとても自然なものであり、あなたが感じているストレスや混乱は、愛情の深さと長い看取りの時間の重さの表れです。
まず、あなたの気持ちは「正しい」か「間違っている」ではありません
「早く逝ってほしい」と思ってしまうことに、罪悪感を覚える方も多いですが、それは決して冷たい気持ちではなく、苦しむ姿を見るつらさ、限界に近づく自分自身の心身への重圧から生まれる、とても人間らしい感情です。
この時期に生じる代表的な感情と向き合い方
- 「穏やかに送ってあげたい」気持ち
──これは、長く一緒に過ごした時間への感謝や愛情の表れです。看取る人にとっても、自分自身の納得や区切りを大切にしようとする思いが込められています。 - 「もう十分では…」という気持ち
──義父さまの苦しみを見ている時間が長くなるにつれ、「もう解放されてもいいのではないか」と思うのは自然なことです。これは、「死を望んでいる」のではなく、「苦しみからの救いを願っている」気持ちです。 - ストレス・疲労・焦燥感
──終末期が長引くと、時間やエネルギーが削られ、自分の生活も滞ります。ここには「見守る側の限界」があり、あなたにもあなたの生活があることを忘れないでください。
どう考えると少し楽になれるか?
■「待つ」ことに意味を持たせすぎない
人の死は、自分の意志や感情では動かせないものです。ですから、「まだなのか」と待ち続けること自体が、あなたの心をさらに追い詰めてしまいます。
代わりに、次のように考えてみてください:
「今はもう“別れの時間”ではなく、“静かな共にある時間”なんだ」
ただ横にいて、必要な声かけや手当てができていれば、それ以上の「正しい答え」はありません。
■自分自身の感情を否定しない
「早く逝ってほしいと思ってしまう自分が嫌だ」と自分を責めるのではなく、
「こんなふうに思ってしまうくらい、自分も苦しいんだ」と受け入れてみてください。
そして、必要であれば家族や友人、専門職(看護師やカウンセラー)に、思いを話しても大丈夫です。
■「最期にできること」は小さなことでいい
手を握る、声をかける、ただそばにいる――それだけで、義父さまにとっては十分な贈り物です。
あなたの存在が、最期の時間を穏やかにする一番の支えになっているはずです。
最後に
「人の死を待つ」という状況は、心の体力をどんどん奪います。
その中で揺れるあなたの気持ちは、全部が「自然なもの」です。
無理に前向きにならなくて構いません。ただ、「自分は十分に頑張っている」と、時にはそう思ってください。
つらいときは、またいつでもお話しくださいね。
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